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クラウトロック、あるいはジャーマン・プログレなどとして呼称されてきたドイツによるエレクトロニック・ミュージックと実験的なロックの融合は、音楽を過去の伝統から切り離して新たなサウンドを産み出す大きな流れを60年代後半から70年代にかけて形作ってきた。クラフトワークを筆頭に、カンやノイ!、ファウストら、多様なバンドがそれぞれのスタンスで新しい音を打ち出してきたその歴史の中で、かのクラフトワークに先んじてエレクトロニック・ミュージックの先鞭をつけたのがクラスターだ。無定形で示唆に富んだ彼らの音は、のちにクラスターと合流したブライアン・イーノをアンビエントへと向わせ、現在のオーディエンスがテクノ、ドローン、アンビエント、ノイズとして解釈し、耳にしているサウンドのまさに源流を形作った。そのクラスターがUNIT6周年イベントのために奇跡の来日! デビュー以来40年、過去幾たびに渡って語り尽くされ掘り尽くされても尚新たな視点と解釈を与えてくれるクラスターの世界を理解するため、ここでは当時の社会背景をもとに構成されたSoul Jazzの新たな決定盤的クラウトロック・コンピレーションのプレス・リリースと、クラスターのオフィシャル・ストーリーにしてドイツのジャーマン・ロック・ガイド、『Cosmic Dreams at Play』をそれぞれ邦訳してお届けする。
世界がカウンター・カルチャーの台頭を迎えていた時代 -ドイツではジョージ・マチューナスの呼びかけによって始まったフルクサス運動や、創造性によって社会を形成するという“社会彫刻”の概念を提唱したヨーゼフ・ボイスによって表現と社会実践を試みる機運が広まっていた1960年代後半 -そこに呼応するようにして登場したクラスターの、なんとも捉えづらいその音こそは、例えばヨーゼフ・ボイスがそうであったように、自らが生きる時代を殴り、蹴飛ばしながらも同時に抱擁する、意志と軌跡の顕われだ。



■ -ドイツのエクスペリメンタルなロックと
エレクトロニック・ミュージックの誕生 -

SOUL JAZZのクラウトロック・コンピレーション『Deutsche Elektronische Musik - Experimental German Rock and Electronic Music 1972-83』プレスリリースより邦訳。

ドイツのエクスペリメンタルなロックとエレクトロニック・ミュージックにおける最初の萌芽は、1968年に準備されていた。パリで、プラハで、メキシコで、主流社会やベトナム戦争、帝国主義とブルジョア的な価値観に対して、デモと抵抗運動が世界中で巻き起こっていたその時、カウンターカルチャーの誕生、ドラッグ体験、そして社会の変化が、音楽の世界を拡大した。ドイツは、これらの世界的な学生や労働者の反乱と、彼らの世代が抱えていた、先の戦争での罪悪感を払拭することによって、独自の文化革命に火をつけてゆく。

多くのドイツの若者が主流社会に背を向けた。1967年、ベルリンにおける最初の労働者共同体/協同組合である“Commune 1”(コムーネ1)の結成に始まり、Baader-Meinhof Gruppe(バーダー・マインホフ・グルッペ。第二次世界大戦後のドイツにおける最も活動的な極左民兵組織。初期は崇高な社会理念に支えられていたが、後に体制側へ迎合)によるテロ組織/爆破活動組織の形成、RAF(革命軍。Revolutionary Armed Forcesの頭文字)による誘拐/殺人の横行など、ドイツの若者たちは、“システム”の外に新たな価値やライフスタイルを求めていった。これらの組織や活動とその理念とで形成されていったコミューンは、Amon DuulやFaust、Can等、新しくラジカルなドイツのバンドの数々へと繋がっていく(中でもアモン・デュールは、後に左翼グループへと発展していったコムーネ1の団員が参加していたことで有名)。

多くのアーティストやミュージシャンはまた、それまで培われてきたあらゆる音楽的要素の排除が新たなドイツの文化のアイデンティティ構築に必要だと信じていた。この時まで、ドイツの音楽といえば“schlager”(ドイツで70年代〜80年代にかけて流行したポップ・ミュージック)であり、それはこれまでドイツの歴史的出来事にはほどんど向き合うことのなかった、面白みに欠けるポップ・ミュージックを意味していた。

Kluster(後のCluster)らによって行われた最初の録音は、サウンドに対して極めて実験的なアプローチを採っていた。非音楽でアンチ・メロディでアンチ・リズミックで、過去に対するあらゆる音楽的リンクを破壊することを試みるものであった。Canのホルガー・シューカイとイルミン・シュミットは革新的前衛作家、カールハインツ・シュトックハウゼンの元で音楽を学び、Tangeline DreamとKlusterの創始者であるコンラッド・シュニッツラーはコンセプチュアル・アーティストのヨーゼフ・ボイスの元でアートを学んだ。これらドイツのロック・グループは、フランスのミュージック・コンクレートやセリー技法と同様に、ピンク・フロイドのサイケデリアや在独アメリカ軍によってもたらされたロック/ジャズ/ソウルなどにも影響を受けてきた。

こうしてドイツのロック・ミュージックは、“実験”への進化の旅を始めた。エレクトロニック・ミュージックは空間と宇宙の概念への道しるべとなった。一方、コミューンの出現は、多くのミュージシャンが生活/仕事できる環境を田園地方に用意し、音楽的なアイデアが自然環境と密接に結びついた“パストラル”という考えへと到達する。また、アメリカ社会の政治への嫌悪にもかかわらず、ドイツのロック・バンドは、それでもアメリカから渡ってきたサイケデリック・ミュージックやドラッグ体験といったカウンターカルチャーに魅了され、Ash Ra Tempelにいたっては、ドラッグ・カルチャーの伝道師であり理論家であるティモシー・リアリー(アメリカの心理学者。LSDによる集団精神療法の研究で知られる)と共同でアルバムを制作するまでになった(作品は1973年に『Seven Up』として発表されている)。

クラウトロック、“kosmische(cosmicのドイツ語)”ミュージック、コズミック・ロック、スペース・ミュージック……こうした言葉で形容されたドイツの電子音楽は、新たな音楽の創造と、過去からの“自由”を志すものだ。第二次世界大戦でドイツが行ったことの結果としてドイツの若者が抱え込むこととなった文化的“虚無”を乗り越え、新たな種を蒔く音楽であり、また、ナチスが近代史において行った残虐行為と彼らの親の世代の罪の意識の中で窒息して育った世代が古いナチスに囚われずに主流社会への復興を目指す、再生の序曲でもある。

こうしたバンドの中でいくつかはもうない。しかしFaust、Cluster、Can、Tangerine Dream……40年にも渡る年月の中であっても、彼らは確固たるものとして存在してきた。そうして確立し、そして達成してきたもの - それこそが、“ドイツの新しいオンガク”である。



V.A.
“Deutsche Elektronische Musik - Experimental German Rock and
Electronic Music 1972-83”

(Soul Jazz Records)







■ Cluster Story
Dag Erik Asbjornsen著によるジャーマン・ロック・ガイド、『Cosmic Dreams at Play: a guide to german progressive and electronic rock』から邦訳。

コンラッド・シュニッツラー(1940年1月27日生まれ)とハンス・ホアキム・ローデリウス(1934年10月26日生まれ)は1967年にベルリンで初めて出会った。彼らは当初、シュトックハウゼンに影響されたアヴァン・グループPlus/MinusやNoisesなどで共に活動しており、ドイツで初めてエコー・マシン、ノイズ、フィードバック、プリペアド・テープ・ループ等を用いた存在であった。ローデリウスは1968年から1969年にかけて数ヶ月間、パリで暮らしている期間があったが、その期間と同じくしてコンラッド・シュニッツラーはアート・コレクティヴであるZodiak Free Arts Labを設立する。そこでピエール・アンリ(フランスの現代音楽家で、ミュージック・コンクレートの先駆者)の音楽に出会ったシュニッツラーは、その影響により、Zodiacを母体としてそれぞれ国籍の異なる8人から成るメンバーで構成されたHuman Beingに参加するのだが、ここにもっとも足繁く訪れていた人物の一人が、当時スイスの学生でベルリン・グラフィック・アカデミーに通っていたディーター・メビウス(1944年1月16日生まれ)であった。シュニッツラーはメビウスに音楽をやるよう勧め、ローデリウスとメビウスに当時自分が取り組もうとしていた新たな音楽的コンセプトへの参加を依頼した。そのバンドの名をKlusterと言う。

1969年中盤のある運命的な日(誰も正確な日にちを覚えていない)、3人は伝説的なプロデューサー、コニー・プランクを迎えてケルン近くのGodorfにあるRhenus Studioで初めてレコーディングを行った。コニー・プランクはKlusterのコンセプトを十分に理解しており(スポンティニアスで即興的な音楽であり、フリージャズとアヴァンギャルド・ミュージックのアティテュードをミックスし、電子機器によってピアノやギターやチェロやパーカッションやオルガンといった様式化された楽器を厳格に置き換えること)、実際に、プランクは新たなアイデアに満ち、スタジオ・クリテイティヴィティに対して非常に豊富な経験を持っていた(彼はシュトックハウゼンのスタジオへの勤務やマレーネ・ディートリッヒのサウンドマンとしてキャリアをスタートしており、その当時はRhenusやCorneといったスタジオのハウス・エンジニアだった)。Klusterの3人とコニー・プランクの関係はすぐに強固なパーソナルでクリエイティヴな繋がりで結ばれ、その関係は1987年12月に彼が亡くなるまで続いた。このレコーディング・セッションがテープとなった後、シュニッツラーはTangerine Dreamに参加し、ベルリンのクラブやギャラリー、そしてフランクフルトで行われた伝説的な1969年10月11日の“Essen Pop & Blues Festival”(旧西ドイツ初のロック・フェスティヴァル。Tangerine Dream、Amon Duul、Guru Guruらが出演し、クラウトロック最初の狼煙がここで上がったと伝えられる)での演奏を行った。

前後して、シュニッツラーは新聞広告で教会のオルガン・プレイヤーが新しい音楽に興味を持っていることを知る。これがたまたま、Oskar Gottlieb Blarr - シュニッツラーがデュッセルドルフに住んでいた頃からの知り合い - だった。Klusterは彼のところまで出向いて先頃制作したテープを聴かせる。Blarrはそのテープに録音されていた割れた音やフィードバック音を気に入り、教会出資でレコードを制作することを提案した。その際、たった一つだけ契約条件があり、それはレコードの片面にいくつかの宗教的なテキストを付加することであった。結果として1970年後半にリリースされたのが彼らの記念すべきファースト・アルバム『Klopfzeichen』であり、これはリリース元レーベルであるSchwann(“the workshop of new church music= 新たな教会音楽のワークショップ”がモットー)にとって、もっともそのイメージからほど遠いものとなった。ライナーノーツにはこう記されている。
「Klusterはプログレッシヴ・ポップのグループであり、その音はシュトックハウゼンやヌオーヴァ・コンソナンツァ(60〜70年代にイタリアで活動した即興音楽の楽団)らと考えをシェアするもので、おそらくドイツのアンダーグラウンド・ミュージックでもっともラディカルであることを高らかに表明している」 アルバムに収められた24分と21分51秒の2曲はともにタイトルが付けられておらず、1曲目にはChrista Rungeによる(強いライン地方アクセントの)テキストの朗読がフィーチャーされている。ここでは音楽はリズムを持たず、ゾッとするような、この世のものとは思えない無調のサウンドが間断なく浮かび上がっている。こうした、スタジオを楽器として用い、楽器を単なる音の生成装置として捉える方法論は、その後Tangerine Dream、Kraftwerk、Faustほか、70年代初期に登場した数えきれないくらい多くのドイツの実験的なバンド(もちろん、クラウトロックと呼ばれることもあるが、この言葉自体は意味を持たないし、ひどく中傷的だ。駐:大戦時にイギリスが敵国のドイツ人をクラウト=酢漬けキャベツと呼んだことに由来するため、侮蔑の意味が含まれる)がサウンドを発展させるにおいて、極めて重要な意味を持つものだった。

Klusterのセカンド・アルバム『Zwei: Osterei』は、先行してファースト・アルバムと同じ日に録音されたものである。ただし、Manfred Paetheによる朗読がそれよりも後になって加えられており、1971年の春になってリリースされた。これら2枚のアルバムは驚くべき技術的なクオリティ(当時の時代を考えれば)に裏付けられており、アンダーグラウンドな音楽神話の中心に位置づけられることとなった。

シュニッツラーは1970年の9月までTangerine Dreamとライヴを行った。彼がローデリウスとメビウスと共にKlusterとして再び結集したのは、Klusterとしては初めてのライヴ・パフォーマンスのためフェーマルンのポップ・フェスティヴァルにジミ・ヘンドリックス - ヘンドリックスはこのフェスティヴァルの数日後に死去した - の前座として出演した時だった。シュニッツラーはその後、Kluster & Eruptionとしての活動に取りかかる。これはKlusterを拡張してさらに多くのベルリンのミュージシャンが参加するもので、1970年11月と12月にPrismaとQuartier Latinで行われたライヴでは、メンバーには Michael Günther、Lutzlbric、Ash Ra Tempelや『E2-E4』で高名なマニュエル・ゲッチング、Klaus Freudigmann、Klaus Schulze、Hartmut Enkeらがいた。

しかし、トリオとしてのKlusterはその後も最後のライヴを1971年5月、ゲッティンゲン大学にて行っている。このコンサートはTangerine Dreamの『Electronic Meditation』や伝説のポリティカル・ロック・バンド、Ton Steine Scherben(ドイツ語によるロックの誕生を記した最初のバンドの一つ。ドイツ本国ではもっとも影響力の強いロック・バンドとして考えられている)の1st及びシングルを録音していたKlaus Freudigmannによって録音されている。57分(奇しくもKlusterの最初の二枚のアルバムと同じような長さだ)の100枚限定プライヴェート・リリースとなったこのライヴの模様は、ハンドメイドの真っ黒なカヴァーに、ただ白いインクのスタンプで“Moebius-Roedelius-Schnitzler + Freudigmann - Kluster - Eruption”とだけ記され発表された。メビウスとローデリウスは“Eruption”のタイトルを気に入っておらず、しかしシュニッツラーは敢えてこのタイトルをカヴァーに記すべきだと主張した。それはバンドが分裂し、それぞれがお互いの道を行くポイントに到達したことを意味していた。

それからもシュニッツラーはKlusterとしてライヴを行っている。新たなメンバーはLutz Ulbrich(g.)、『Klopfzeichen』での朗読と同じ人物であるChrista Runge(Dr.)、そしてKlaus Freudigmann(electronics)で、1971年ベルリンにて、作曲家のFriedhelm Döhlと彫刻家のGünther Ueckerによってオーガイナズされた“Klang-Szene 2”の一環としてNational Galleryでギグを行った。

一方、メビウスとローデリウスはデュオとしての活動を続けた。しかしシュニッツラーとの訣別を表明するため、バンドは“K”を“C”に変え、Clusterと名前を変えた。2人の次の作品はすでに1971年1月、ハンブルグでレコーディングされており、またもやタイトルの付けられていない3曲のクレジットには、コニー・プランクがコ・コンポーザーと記されている。Philipsレーベルは新しい音楽に興味を示し(プランクがレーベルのために働いていたので良いコネクションもあった)、Cluster、そしてKraftwerkとサインをした。

Clusterとしてのファースト・アルバム『Cluster』(後に『’71』として再発)は、1971年の秋に発表された。アブストラクトで示唆に富んだ無調の音楽(同じくプランクがエンジニアを担当したKraftwerkのファースト・アルバム『Kraftwerk』収録の「Stratovarius」や「Vom Himmel Hoch」とアプローチをほぼ同一にしている)がドイツのオープンマインドな音楽誌に好意的に迎えられ、Sounds誌では1971年のベスト・アルバム10枚にも選出された。

セカンド・アルバム『Cluster II』はまさにファーストの一年後、ハンブルグのStar Studioにて録音された。これまでで初めて、彼らの音楽は調性に特徴がもたらされ、楽器の音はいくぶんそれと分かる音になり、6つの楽曲にはタイトルまで付いた。Tangerine Dreamが翌年『Atem』で行うことになる試みと較べてみると、これは興味深い変化だと言えるだろう。Clusterはこのセカンド・アルバムにおいては、ギターを用いて荒れ狂うサウンドエフェクトの上で繰り返されるパターンを弾いている。この結果は特に12分50秒の「Im Süden」で際立った成果を残している。

その後、ClusterはNiedersächsenにある、のどかで小さな田舎の村、Forstに移り、自然に囲まれた環境のなか簡素なホーム・スタジオをセットアップした。このことにより、彼らの音楽はホームスタジオで録音され、その後コニー・プランクのスタジオで再びミックスされるという手順を踏むこととなった。時折ギャラリーや美術館へ出掛けてはライヴを行っている中、1973年のイースターの日、彼らはハンブルグの高名なギタリスト、ミヒャエル・ローター(元KraftwerkでNeu!のオリジナル・メンバー)からの招待を受け、ClusterとNeu!とでひとつのバンドとしてライヴをできないか相談を持ちかけられている。彼らは共に即興で演奏を行い、互いに共通する音楽的理解に気付く。結果として、ミヒャエル・ローターは1973年6月、Clusterと同じくForstへと拠点を移し、彼らの新たなコラボレーションは、3人のよりハーモニックなアヴァンギャルド・ミュージックへの渇望を反映し、すぐにトリオ・バンド、Harmoniaが誕生した。

1973年の6月から11月にかけて、ForstではHarmoniaの名作『Musik von Harmonia』が録音される。ローターはNeu!によって原型が形作られたモノトナスなリズムをバンドにもたらし、それは「Watussi」(5:55)や「Sonnenschein」(3:50)といった楽曲で顕著に顕われているが、しかし同時に反復的なキーボードのブ厚いレイヤーにも覆われている。同じくローターがギターを弾いている「Dino」(3:30)や「Veterano」(3:55)では、よりアップビートなエレクトロニック・クリング・クラング・ミュージックが展開され、幽玄な「Sehr Kosmisch」(10:50)がHarmoniaのもっとも瞑想的な瞬間を映し出す一方、「Ohrwurm」(5:05)はClusterのアルバムと地続きな唯一の楽曲となった。また、「Ahoi!」(5:00)と「Hausmusik」(4:30)は、彼らをとりまく田園環境を反映するものだ。この多彩なアプローチに満ちたアルバムは、この分野を代表する名盤となった。

メビウスとローデリウスは、Clusterのサード・アルバム『Zuckerzeit』を1974年の秋に録音した。ミヒャエル・ローターをコ・プロデューサーに迎えたこの作品は、エレクトロニック・ミュージックの発展において、新たなマイルストーンとなるものだ。10の愛らしい楽曲がウイットとアイロニーに満ち、KraftwerkやTangerine Dreamのよりシリアスな作風と良い対比を成している。『Zuckerzeit』において、Clusterの音楽はより肩のちからの抜けた、リズミックなものとなった。いくつかのメロディ(時折、中国の伝統音楽などとおなじく、ペンタトニック・スケールが用いられる)などは、ほとんど子供のような無邪気さを持ち、また、彼ら2人それぞれの特性が初めてはっきりと記された作品でもあった。メビウスのカーキーなサウンドやヘンテコなリズムパターン(その後のソロ・アルバムやコニー・プランクとのコラボレートで一斉に花開く要素だ)への愛情とローデリウスのもっとロマンティックで暖かいメロディ……。そう、実にエキサイティングな瞬間だった!

また同時に、ミヒャエル・ローターはクラウス・ディンガーと共にNeu!の最後のアルバムを作っていたが、それだけにとどまることはなく、翌年、1975年の夏、Harmoniaはセカンド・アルバムにして、より音楽の伝統にのっとった『De Luxe』を制作した。ロックのリズムと哀愁を帯びたメロディの5曲は、より親しみやすく(なんというか、休みの日の気分を放っている)、Kraftwerkが『Ralf & Florian』で見い出してはいたが、しかしまだ完全には確立できていなかった方法論を実証するものだった。だが、ミヒャエル・ローターはアルバムの完成後、1976にドイツのLPチャートでトップを取ることになる自身のソロ・アルバム『Flammende Herzen』制作へと向う道を選択することになる。Clusterはローターとは異なる方向性を探求することを選び、そして両者の蜜月はこの時終わりを告げた。

1976年はまた、ブライアン・イーノがHarmoniaを尋ねてForstへやってきた年でもあった。この才気あふれる英国人は常日頃からClusterの音楽を非常に高く評価しており - イーノをして“世界でもっとも重要なバンド”と言わしめた - 両者は1974年ハンブルグで行われたショウのバックステージで初めて出会う。メビウス、ローデリウス、ローター、そしてイーノが一同に会して一番始めに行われたコラボレートは1997年の非常にリラックスしたムードが漂うHarmonia & Eno名義での『Tracks and Traces』までリリースされることはなかったが、これが当時に発表されることがなかった理由として、Harmoniaの終焉を打ち出す意図があったのではないだろうかと思う。

Clusterは続いて4枚目のアルバム『Sowiesoso』を録音した。『Zuckerzeit』でも垣間みられた、“パストラル”(牧歌、田園詩)な方向性をより押し進めたこの作品は、結果として、より洗練され練り込まれたアンビエントへと純化されている。この時期彼らは、主にピアノとシンセサイザーを用いるようになった。「Sowiesoso」(8:10)はメロディックなエレクトロニカだが、今聴いても新鮮な響きを放っているし、「Halwa」(2:45)と「Es War Einmal」(5:25)はアスモス・ティッヒェンス(数学的な理論によって裏付けされる、“絶対音楽”の探求で知られるドイツの電子音楽家)が彼のファースト・アルバムで発展させることになるスタイルの先駆け、最初のスタート・ポイントとも言うべきものだ。

また、同じくイーノとのコラボレートである1977年の『Cluster & Eno』は、よく思われているようにそれほど革新的な作品というわけではなかったにしろ、しかしよりメロディックなピアノの主旋律を軸にした、暖かく心地の良い作品だ。「One」(6:00)にはオッコ・ベッカー(シタール奏者。ティッヒェンスの盟友)とアスモス・ティッヒェンスがそれぞれシタールとシンセサイザーで参加している。このアルバムはNeunkirchenにあるコニー・プランクのスタジオで録音された。

1978年以降、メビウスとローデリウスは徐々にそれぞれ個別のソロや家族との生活に時間を割くようになってきた。ローデリウスはオーストリアへ移住し、その後多くの作品を残すことになるソロ活動をスタートした(ソロのファースト・アルバム『Durch Die Wüste』は1976年に録音されていたが、リリース元のSky Recordsは1978年までリリースすることはなかった)。メビウスは友人たち - コニー・プランク、アスモス・ティッヒェンス、オッコ・ベッカー、Helmut Hattler、Alto Pappert - と共にLilienthalとしての活動を行い、Brain レーベルからアルバムを発表したほか、コニー・プランク、Gerd Beebohmともアルバムを制作した。もちろんこの結果は、その後もっとも良く知られることになるMoebius, Plank, Neumeierの大傑作、『Zero Set』に結実する。

1978年、ブライアン・イーノと共にClusterはもう1枚のアルバムを制作した。Eno, Moebius & Roedeliusとしてリリースされ、主にイーノの手によるものであると伝えられるその作品、『After The Heat』(熱狂の後に)は、タイトルがそうであるように、彼らの非常にめまぐるしく過ぎ去った70年代をクールダウンさせるようなアンビエントだ。熱狂の後に残ったレクイエムのようなその音は、しかし過去を葬り去るものではなく、その後のたくさんのソロ・ワーク、そして今もって度々行われるClusterとしてのアルバム制作をより地に足をつけて行うための、静かで着実な布石であり、ゆっくりと今もアンビエントやドローンの世代のアーキタイプとして、そしていつもアイデアを振り返る為の影響の源泉として鳴り続けている。

*何度かの沈黙期間を経て、Clusterは現在、再びアクティヴに活動をしている。2009年にはNepenthe Musicから最新アルバムを発表、穏やかなメロディに包まれたパストラルなムードと軽やかな(Clusterの音楽に“軽やかな”という表現が必要とされるなんて意外かもしれないけれど、でも確かに軽やかな)リズム、そしてイマジネイティヴかつ円熟味に溢れるサウンドスケープで健在ぶりをアピールした。2人はヨーロッパを中心に非常に旺盛にライヴを行っており、ここ最近だけでもバルセロナの“Sonar Festival”出演、“All Tomorrow's Parties”によるシカゴのポストロック・レジェンド、トータスとのコラボレート・ライヴである“Tortoise + Cluster”の開催等、話題を振りまいている。40年以上に及び、今も更新され続ける彼らの歴史の中にあっては、2010年の現在であってもClusterを“伝説”として過去へ遠ざけるのは早すぎる。彼らは今までと同じく、創作意欲に満ち、あらゆるジャンルにおおきく開かれ、重要であり続けているのだから。



“Cosmic Dreams at Play: a guide to german progressive and electronic rock”
Dag Erik Asbjornsen (Borderline Productions) ISBN-10: 1899855017





-selected discography-


Kluster
“Klopfzeichen” (Schwann) 1970



Kluster
“Zwei: Osterei” (Schwann) 1971



Cluster
“’71” (Philips) 1971



Cluster
“II” (Brain) 1972



Cluster
“Zuckerzeit” (Brain) 1974



Cluster
“Qua” (Nepenthe Music) 2009



Eno, Moebius & Roedelius
“After The Heat” (Sky Records) 1978




Harmonia
“Musik von Harmonia” (Brain) 1974




Harmonia
“De Luxe” (Brain) 1975




Moebius, Plank, Neumeier
“Zero Set” (Sky Records) 1983




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